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栖來光 : 【金馬57雑感】原点回帰~政治と金馬奨授賞式と。20201122


世界にとってもそうだが、台湾にとってはとりわけ色んな意味で特別な年だなと何度も思わされてきたこの2020年。
あと一か月強を残すばかりとなった今年の、金馬奨授賞式でも改めてそれを深く感じることとなった。本当に愛おしい映画ばかりで、どの作品の誰が受賞しても嬉しいという幸せな授賞式だった。そんな体験ができたことについて、台湾映画にかかわるすべての方々に敬意と感謝を表したい。
嬉しかったポイントは色々あるけど、それはSNSである程度発信したので、ここでは特に私なりに今年特に考えさせられた「政治と金馬奨授賞式」について、じっくり書いてみたいと思う。
期待通り『消失的情人節』が作品賞、監督賞、脚本賞、視覚効果、編集の五部門で受賞した。去年、日本で『熱帯魚』と『ラブ・ゴーゴー』のデジタルリマスター公開になる際に、パンフレット用にこの映画を撮り終えて編集に入ったばかりの陳玉勲監督にインタビューした、このトップ画像はそのときのものだ。
「新作は、ラブ・ゴーゴーみたいな映画になるよ。あと、東石(熱帯魚の舞台)でも撮った」
という勲導の表情に、原点回帰への深い満足感と手ごたえが感じられ、絶対にいい作品になるだろうと期待していたら、私の想像以上の素晴らしい作品だったうえ、金馬でもこれだけ授賞されて本当にうれしくて堪らない。

『消失的情人節』公式FBより
2017年の春節映画として公開された陳玉勲監督の前作『健忘村』は、中国で公開になるなり監督が「台湾独立派」だとネットで炎上、中国での上映は早々に打ち切られて「中台合作映画」として史上最高額の損失を叩き出し大変な騒ぎになった。それまでも、ダイ・リーレンの謝罪事件など頻発していた台湾エンタメ界が中国と関わる際のカントリーリスクを、明確に浮き彫りにした作品だったといえる。
インタビューの雰囲気からも、監督がその時負った傷はかなり深かったと思うが、その挫折を乗り越えて今回の見事な復活までを支えたのは、間違いなく『熱帯魚』や『ラブ・ゴーゴー』の頃からずっと持ち続けた勲導ならではのユーモアだったと思う。
ユーモアこそが色んな傷や痛みを乗り越えること、そして改めて「初志」を大切にすることの大事さを、今回の作品を通して勲導に教えてもらった気がする。
そして、易智言監督が長編アニメーション賞受賞。
2000年前後、製作される台湾映画は一年に数本という「ぺんぺん草も生えない」不毛時代から、今にかけて生き残っている同時代の監督が陳玉勲、そして日本では『藍色夏恋』のタイトルでヒットし、台湾青春映画の金字塔を建てた易智言である。
そんな二人が、同じ金馬授賞式のステージでそれぞれ受賞したこと、長年の戦友のようなプロデューサーの李烈の涙、また『藍色大門』コンビのチェンボーリンとグイ・ルンメイがプレゼンターというのも、なんだか台湾映画の歴史の紆余曲折を感じて胸がじーんとしてしまった。
以前から何度かブログでは書いているが、そもそも「金馬奨」は設立当時に中国との両岸冷戦下で最前線だった「金門」「馬祖」の一文字ずつを取って、大陸の影響下に縛られない自由な中華文化の発展というコンセプト、かつ台湾語全盛の台湾映画界の中で「国語」(北京官話/台湾華語)で作る映画人を応援する賞として設立された。
毎年この時期に開催されるのは、蒋介石の誕生日祝いも兼ねているという、もとは非常に「中華民国」的な催しである。
後に広東語も受け入れるようになると香港映画で盛り上がり、また両岸関係の変化に伴って中国映画にも門戸が開かれるようになって、中華圏における華人映画最高の名誉ある賞との呼び声も高い。
転機が起こったのは2018年、現在日本でも公開中の『私たちの青春、台湾』が最優秀ドキュメンタリー賞を受賞したことによる。問題は映画そのものではなく、檀上に立った傅榆(フー・ユー)監督のスピーチだった。多くの中国から来た映画人が居並ぶ中で(この年の審査委員長は中国のコン・リー)そのスピーチを半ば絶叫のような形で
「いつか私たちの国家が真の独立した個として見られること、これが台湾人として生まれた私にとって最大の願いです」
と言って〆たのである。スピーチは現場では満場の拍手と絶賛でもって迎えられた。私もその年の授賞式は会場にいたので、その盛り上がりはよく覚えている。
しかしその後、中国人のゲストらがそれに猛反発し、受賞後のパーティーをボイコット。
翌年からは中国最大の映画祭「金鶏奨」を金馬と同じ日に開催する事で、実質的に中国からの金馬参加が不可能になる(このあたりの事情は昨年、長年台湾映画をフォロー、日本に紹介してこられた江口洋子さんに教えていただいた)。
台湾でも傅榆監督の発言について「あんなことは言うべきではなかった」「政治は政治、映画は映画に帰するべき」など揉めに揉めた。
いくら政治が対立していても、台湾と中国の間で「映画」という文化を通して制作者や技術者の交流が行われ価値が共有されていくこと、台湾映画が中国マーケットで受け入れられることで台湾への理解が広がる(かもしれない)こと、「中華圏映画の最高権威」としての金馬が台湾で行われることで台湾の正統性や価値が高まることなど、中国からの参加がなくなることで失われるものは大きいという声も多かった。
それも一理あるし理解もできるが、でも矢張り台湾映画にとって、中国からの参加がなくなったことは結果的には良かったと、今年の授賞式を見ながら深く感じいった。
理由はいくつかある。
まず一番大きな理由は、台湾映画界と社会のあいだに一体感が生まれたこと。
そもそも、台湾人自身がこれまで余り台湾映画に興味を持ってこなかった。80-90年代の台湾ニューシネマは世界中の映画ファンに台湾映画という存在をアピールした反面、難解で娯楽性に欠けるという事で台湾の観客は離れていってしまったのが、2000年前後の不毛時代につながる。長い間、台湾人にとっては映画を見に行くといえば「ハリウッド」の娯楽作だったし、「台湾映画はだめだ」という思い込みはいまだにある。
2008年『海角七号』以来、年々高まっている台湾アイデンティティーと台湾映画との関係性はどんどん深まり、台湾語がメインとなった本土意識の高い作品に共感する台湾人の観客も増えたし、ジャンル映画の発展で台湾映画を見る人口も明らかに増加した。
2011年には「日本語」「セデック語」が主な『セデック・バレ』が多くの賞を受賞するなど金馬受賞作品の多様化が進むなか、近年は巨大な中国資本・マーケットへの距離の取り方と台湾映画界の独立性、および政治的な不公平感がぬぐいきれず、受賞作品の選定のされ方についても色んな物議が醸されてきた。
しかも、最近の中国映画はやっぱりすごい。ネットフリックスで「長安十二辰」という唐朝の頃の時代劇をちらちら観ているが、規模といい時代考証の深さといい技術力といい、とにかく凄い。もうマーケットの規模や資金力、人材の厚みが今やハリウッドに近づき、台湾とは(というか日本とも)桁違いなのである。台湾でこれを作れと言っても無理だし、こういう規模でぽこぽこ完成度の高い華語映画が出来れば、金馬の受賞作品が中国勢だらけになっても仕方がない(実際に2018年以前はその傾向があった)。
多くのスターが出て華やかにテレビ放映され注目される金馬奨だからこそ、台湾映画が賞をとれば「じゃあちょっと観に行こうか」という気持ちにもなるだろう。
でもノミネートされても結局、賞を獲るのは中国映画だとすれば、「やっぱ台湾映画はだめなんだ」って台湾の観客は思うだろうし、とくに台湾本土意識の強い人なんかは「しょせん映画業界なんて外省人の世界だから」とひねくれてしまう。台湾映画の省籍問題は、かなり長いあいだ台湾映画を社会的に分断してきたと思う。
しかし多くの方にとってご承知のように、映画の規模や完成度と、その映画が好きで人生において大切な作品となるかどうかは、全く別物であるだろう。
もうひとつ、今年のコロナ防疫の成功で台湾人としての自信が確固としたものとなり、台湾アイデンティティーが強まったことは何より大きかった。金馬委員長の李安の挨拶でも、今年の台湾の防疫の頑張りについて触れられて会場は沸いた。確かに、皆マスク着用義務があるとはいえ、こんなにも大規模なセレモニーが普通に行われているのは今世界で台湾だけなのではないだろうか。若林正丈先生いわく「防疫共同体」、ならぬ「台湾文化共同体」とも言うべき「みんなで作る/みんなで盛り上げていく」台湾映画という雰囲気が、作り手だけでなく受け手の側にも出来たように感じた。
蓋を開けてみれば、侯孝賢(ホウシャウシェン)や王童、王小隷(ワン・シャオリー)と言った戦後の外省系1・5世、2世らがプロデューサーとして陳玉勲や易智言監督らを生み、彼らも台湾藝大・北藝やQ-Place植劇場など若手の育成に励んで、そこから多くの新人監督や最近大活躍の劉冠廷など若手俳優が育っている。
国民党軍の偉い将軍を父親にもつ王童監督が、「外省人1.5世」ともいえる自分もまた「台湾人」であり、作っているのは「台湾映画」だと今年春のインタビューで語ってくれたように、実はとっくに省籍関係なく「台湾映画」の歴史は脈々と連なって作られているのだ。
しかしそれでも台湾文化はナイーブな側面を持っている。強大な中国の映画業界と駒をぶつけるように戦わせても、はじかれて生傷だけが深くなるだろう。だから、しっかりと労わる必要がある。
主演・助演の二冠という快挙を成し遂げた陳淑芳のコメントは実感をもっていた。
「そして投資者に感謝します。台湾の監督、俳優、スタッフみな素晴らしい。台湾から流出させてはいけない」
そのために大事なのは、なるべく投資者は台湾で探せること。つまり台湾の消費者の支持があることが前提となる。
今しばらくはこのまま、台湾の観客の幅広い共感を得ながら、台湾映画をじっくり大事に育てる時期なのだろうと感じる。あれだけ世界中で売れている韓国映画だって、一番観られているのはやっぱり韓国国内なのだし。
そして最後にもう一つ大きな意義。
計らずも蔡政権の「新南向政策」に沿うようにシンガポールやマレーシアといった東南アジアのマイノリティーをテーマにしたような映画について、金馬が世界へと紹介する窓口となったことだ。
さらに言えば、香港からの出品作に対して持つ意味も大きい。もし以前のように審査員などに中国の映画人が運営に関われば、映画人本人の意思とは関係なく「政治的な意味を持つ/持たされる」ことは間違いなかっただろう。
台湾映画のみならず、東アジア・東南アジアのマイノリティー映画や映画人をエンパワメントしていく台湾最大の映画賞。(是枝監督のおかげで、日本も加わった。これはかなり嬉しいことで、是枝監督に感謝したい)
未来はどうなっていくかわらかないが、今しばらくは、台湾の複雑な歴史性と風土を作り手も受け手も大切に受容しながら、『親愛的房客』主演で最優秀賞を受賞した 莫子儀(モー・ズーイ)の受賞コメント
「致自由,致平等,致天賦人權。致電影,致創作,致生活。」
(自由、平等、天から与えられた人権。映画、創作、生活へ)
という言葉を胸に、よりよい創作、よりよい明日を目指す、ということに尽きるのだろう。(あ!それこそが今年の金馬奨のテーマでもあった)
「金馬奨はなにかという事を考えるのは、台湾とはなにかを考えること」であり、それが金馬奨を観る面白さともいえる。
そして、台湾映画の特殊性と魅力とは「台湾アイデンティティー」、いわゆる「民族国家」的、ナショナリズム的な指向性が高まれば高まるほど映画のテーマや問題意識はジェンダーやセクシャリティー、エスニシティや風土性など様々な文化に跨って普遍的な価値観を見出していく事だと思う。
そうした意味で、もともと「大陸の影響下に縛られない自由な中華文化の発展というコンセプト」で始まった金馬奨は、今また原点、というよりさらに進化した「台湾」という原点に回帰したと思う。
その名称が、近代においては日本の植民地下になく、また中華人民共和国の領土にもなったことのない「金門」「馬祖」という二つの「純粋な中華民国」(by・河崎真澄氏)の名前を持つのが、皮肉というか興味の尽きないところだ。
最後に、わたし的な目下の目標は、
『孤味』のテーマソングを練習して、林森北路のスナックのカラオケで歌えるようになることである。

原文出處 栖來光